自分の構成要素を把握する

現時点では、己を知ることが最善の手だという仮説から、

さて自分のなにを知ればいいんだろう?という疑問に至った。

 

資産やコミュニティや対人関係などなど、自分を構成する要素を挙げればきりがないが、最小単位で考えると

①肉体的要素

②精神的要素

という2つの大集合がある。

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②精神的要素 は自己分析でよく掘り下げる部分だが、①肉体的要素 を考える機会というのはなかなか少ない。というのも、精神というのは概ね皆似通ってくるが肉体は本当に人それぞれで見ただけでわかるものでもないから、「肉体について知ろう」という発信自体が少ないのだと思う。要するに、投げかけられない質問には答えられないので、いままで考えてこなかったのだ。ただ今回、自発的にその質問を生み出したことで、考える機会が生まれたのは幸いだろう。

精神的要素は「相性」という形で第三者への影響が大きいが、肉体的要素は「相性」という形では言及されづらいため、主体的に当事者意識を持てるひと以外は意外と肉体について考える時間を持てないのかもしれない。

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さて、①肉体的要素 はさらに

①外面特徴(肌の色や毛の量などの可視特徴)

②内面特徴(視力やアレルギーなどの不可視特徴)

という2つの中集合に分けることができる。

 

 

なにを、してもらっているのか

人は一人で勝手に助かるみたいな話をダーっと観て、それがすごく面白くてニヤニヤした明け方があった。

今回はその話ではないが、それに近い話だ。

 

ぼくは自分の力で生きているか?もちろんノーだ。でもそんなことは意識しないで生きられている。それくらいにはなにかをしてもらっているのだ。

自分の力で生きていると勘違いさせるくらいに、大きななにかをぼくは貰っている。

それは抽象的に言うことは簡単だけど、結局のところ、「なにをしてくれたか」という具体的行動はそれを起こす周囲の人間そのものに依存する。個性ともいえる。

なにを享受しているのか、それを認識しようとしないうちは「子ども」である。自分で、そう望んでいるのだ。無意識化でそれらすべてを「当たり前」と認識するのが親子の関係性なのだろうし、無償の愛というものだ。

しかし、本当に当たり前だと認識しているわけではない。だからこそ節目で感謝を表明するし、あるいは同じような愛をもってぼくらは恩返しをする。

恩返しを期待してなにかをしているわけではない。感謝の気持ちというのは、親子という関係性とはまたべつの現象であり、深く考えるべき行動なのだ。

 

いつだったか。ぼくは自分をひとに感謝しない人間であると感じたことがある。

恐らく大学四年の春だろう。過去を冷静に分析し始めたのはそのあたりしかない。

恐らくその直感は概ね当たっている。奉仕の精神こそあれど、それは感謝に基づくものではなかった。なにかのサイクルではなく、一方的にぼくが与えたいものを与えていただけに過ぎない。

 

ともあれ、少々時間はかかったものの、ぼくはやっと「人が自分にしてくれたこと」について考えるようになった。気まぐれともいうが、その気がなければ気まぐれも生まれない。

 

今日でいえば、

大量に出した洗濯物を当たり前のように洗って干してたたんで階段に置いておいてくれたし、おいしいランチが食べられるお店に一緒にいこうと誘ってくれたし、愛情を包み隠さず伝えてくれたし、それとなく油断しきった声で優しいなと言ってくれたし、唐揚げやコロッケを買ってきて温めてお皿に盛ってくれたし、めかぶをモズクだと言って勧めたは健康を気にしてくれたのだし、身近な男性との相性の悪さをそれとなくボヤいたのは自己開示であり信頼の表明だろうし、知らないうちにシーツを椅子の上に置いておいてくれたし、ぼくがお湯を沸かす手間を省くために自分の飲んでる紅茶をくれたし、お財布事情を理解して援助を切り出してくれたし、お風呂はいつの間にかできていたし、いろんなコストは誰かが払ってくれているからこそ電気が使えて今もPCを開いている。

 

今日だけでも、思いついただけでもこれだけのことを享受している。

そしてこれらは、多くの場合「当たり前」としてやり過ごされているが、ぼくが思うに日常的なそれらは一つの気持ちで上位の存在に変換することができる。つまるところ、感謝の表明により、奉仕は形をもち両者が認識できるようになる。感謝が日常的すぎるとそれはそれでまた一つ上の感謝が必要になってしまうからこそ、感謝は安売りするべきものではないのかもしれないが、それはともあれ意図的にでも行うべき価値ある行動なのは疑いようがなかった。

 

ぼくが、感謝を意識することには上記の主目的とは別の目的がある。

他者からのアプローチを認識することで、「貢献したい」、「恩を返したい」という意識を高めることだ。「自堕落でもいい」という認識は、自分勝手に生きている限り無くならないだろう。もう少し、他者がぼくにしてくれていることを自覚することで、期待に沿う意識を育てようと思う。

 

まぁ、これは少し危ない。病んだりするのは、きっと自分で自分の像をコントロールできなくなるからだろうし、リスクはあるんだ。でも、リスクなしに得られないものはゴロゴロあるのもまた事実で、いまはそういうものを手に入れたいのだ。

機嫌よく生きるということは

物語の最後に「めでたしめでたし」をつけることができる

というのがぼくの個性である。

これは当然、幸福とするか否かは自分次第であるという理に基づいた実践なわけだ。

 

さて、本題は自身の好むところである「写真」が「幸せそうなぼく」を映していないという点である。すべての瞬間において、ではないが幸せであるべき瞬間に相応しい表情をしていないのだ。

これは困ったことだ。幸せは強引な解釈でつくることはできるが、瞬間を切り取った数メガバイトのそれは無表情な自分を映している。展開とオチに溝がある気がして少々ひやっとする。あってもいいのだが。あるほうが多いのだろうが。ぼく自身はそれをどうにか変えたいと思っている、ということが最も重要なのだ。

 

とはいえ、表情に出ているものだけがその人の心の凡てではなく、一般的に、多くの感情やそれ以前の認識というものは表情に出ることなく過ぎ去っていく。消え去っていく。

それらの不可視なものを表現するのが色々な芸術だということは、まぁなんとなくわかってきた。

しかし活き活きとした表情が大好きで、そういう人を写真に収めたいぼくにとってこの事実はそれなりにショッキングだったからこそ、変えたい。

 

なにがショッキングなのか。

極論、ぼくはどんな感情・表情を経たとしても過去を振り返る瞬間は幸福なのだ。

しかし、一緒にいた友人はどうか。幸福そうではないぼくを観測した友人はどうだろうか。

これもまた、幸福になるかどうかは友人次第、とは言えるものの友人全員が意志をコントロールできるわけではない。そして観測した事象を捻じ曲げることはない。

要するに、後でぼくが勝手に幸福になろうが、友人にとってはそれほど幸福ではないぼくが現実なのだ。現象なのだ。

一緒にいるひとの表情というものは、大小は異なれど、その後の関係性に影響を与える。また会いたくなるか、どうかというところだ。

ぼくはまた会いたいと思われたいし、そのためにはできる限りのことをする。面白いアイデアで一日を彩るのもそれが理由だし、写真で楽しい瞬間を残すのもそれが理由かもしれない。

 

というわけで、ぼくは上機嫌でなければならない。無防備なぼくでなければならない。

なにかを論理的に考えようとするとき、表情は死ぬ。論理は感情と相いれない。水と油だ。楽しいときのぼくは概ね好き勝手やってるときだ。ひとの都合をあまり考えなくていいとき。顔色を窺わずともいい雰囲気が伝わってくるとき。誰もあまり我慢していないとき。こういう状況を探していくと、3-4人くらいのグループがこれにあたる。話し手、聞き手のバランスがちょうどいい。ぼくはそういうときが一番楽だ。

では、2人のときはどうだ。難しい。間、というものを意識せざるを得ない。

あーもうめんどいのであとは今度考えよう。

 

横一列でスタートを切った、ボクら。

この人とは同じ括りにされたくない、と感じる相手が多い。

同じコミュニティで、同じ属性を冠しているとき、特にそう感じる。

 

それと似た状況として、誕生日が同じ彼のことを考えている。

なにかに秀でているわけではないが、独特のリズムでおもしろい雰囲気を醸している彼は、しかしやはりひとに劣る部分が多い。

同じプロジェクトに携わって実感したのは、そのモチベーションの低さと、対人スキル

の低さだ。どちらかが長けていれば、投げられた仕事を遂行する歩兵くらいにはなれたものを、残念なことにどちらもできないのが彼だった。

さて、誕生日、大学、キャリアがここまで近い存在は稀なため、本来であれば切磋琢磨しあえる関係が理想だったと思う。

一人で考えると思考スピードは遅くなるし、お互い利用しあえればよかった。

しかし、現在の関係性は近くも遠くもない微妙なものである。

 

「同じ括りにされたくない」という気持ちが最も大きな障害物になっているので、この気持ちを深堀りしていこう。

発生の原因をさぐるために、じぶんにいくつかの質問を投げる。

①同じ括りにされたくはないが、実際大きな違いが存在しないのでは?

YES.肩書やコンテンツという意味では大きな違いは存在しない。

ただ人間としての志向性は大きく異なると思う。

表面上でのやり取りに重きを置くのが彼ならば、内面の核心を突きたいのが僕だ。

彼は一貫してゆるく低空飛行だが、僕は熱意をもって極めたいという気持ちがある。

 

人に対する抵抗感というのは、相手の中に、認めたくない自分の姿を垣間見たときに抱いてしまうものではなかろうか。すべてがそうではないが、今回はそうだ。

さて、ぼくはどんなじぶんから逃げているのか。

 

①不真面目な自分

熱意をもってやるプロジェクトもあるが、確かに低空飛行でなあなあな場合もある。

学問は特にそうで、その部分に関してぼくは彼と同じなのだ。

頑張れなかった自分を受け入れるべきだ。

 

②見下されている

彼は尊敬に値しない、と多くの人が感じているだろうことが、ひしひしと伝わってくる。というか公言されている。

しかし、彼が顕著なだけで、自分だってそうかもしれない。僕が成し遂げたことは可視化しづらいものだ。

つまり、自分に価値を見出していない人の多さというものから目をそらしてはいけない。大衆から称賛されるようななにかはできていないのだ。それは、外見で与える影響なども含まれる。一緒にいるだけで楽しくなるような外見はしていないのだから、もし大衆から称賛されたいのであれば、わかりやすいなにかを成し遂げる必要があるだろう。

ぼくは表舞台に立つのが向いていない。

裏方としてぬるいエンタメを提供するのが本分ならば、「大衆から評価される」という項目はぼくの生き方と相反することだと強く認識するべきだろう。

「個人から信頼される」というのが私の専売特許であり、どう考えても対人関係で重要なのはこのスキルなのだ。

 

 

個人からの信頼を重視する生き方。

さて、その生き方と「自己の発信」を両立するには、どうするのがベストか。

ねむること、はたらくこと

いま睡眠の重要性はまことしやかに取り上げられている。

ブラックな職場で働いている人々は睡眠を渇望しているかもしれないが、

ぼくはそうでもないのだろう。

 

8時間だけ寝たときのほうがすっきり目覚めがいい。

ひさしぶりに13時間寝たら頭がぼんやりしている。

 

難しい。けど寝れば寝るほどいいわけではなさそうだ。

いまを、そのままみる。

この時期、極めて難しいのは「いまここ」を認識することだ。

 

過去はこうだった。

未来はなりたい。

 

こんなことを考えていると、どうしても

フィルターを通したいましか見れない。

そして、そんなフィルターがあることにも気づかずに生活してしまうのだ。

 

昔はもっと頭がよかった。

つまり、この課題はすぐに終わるだろう。

こうしていまが捻じれて、どうしようもなくなってしまう。

 

未来はもっとドキドキして幸せになりたい。

だから平凡な日常は放棄するべきだ。

こんなバカげた思想がうまれてしまう。

 

気分なのだろうか。

結局、どんなフィルターを通してみているか。

これを認識することが重要だ。

 

そのうえで、やっぱり一番大事なのは「いまここ」のジブンだろう。

判断材料なんて全部取っ払ってみて、最新の言動・行動を見つめてごらん。

もしいなくなったら。

重要なメッセージを送ってくれるひと。

そういうひとのおかげで、豊かな人生が成り立っているのではないか。

 

自分で考えることは重要だが、道をそれることもある。

そんなときに、自分勝手であろうと、声をかけてなにかを伝えてくれるひと。

そういうひとのおかげで、ぼくは挫けずにやっていけてるんだろう。

 

親、親族、じぶんを愛してくれるひとの言葉というのは本当に大切なもの。

押し付けるな と反感を覚えることも多いが、もし、もしそのメッセージを受け取れなくなったら、と考えるとこんなに寂しいことはない。

 

ぼくのことを思って紡いでくれている言葉、しわがれた声や、電話越しに流れる古臭いBGMや、これまでたくさん話した思い出、それはずっと続くものではない。

愛されている。愛している。

そんなひとの声が届かなくなったら、こんなに寂しくてつらいことはないだろう。

 

別れというものを意識しすぎると、不安になってしまう。

だから、自然体で、一瞬を大切にできるひとになりたい。

頑張らなくても、メッセージを記憶に留めておけるようなひとになりたい。

 

ぼんやりと、そのひとの顔と、くれたぬくもりは覚えていても

どうしてか、大事なメッセージは忘れていたりするだろう。

すこし、寂しくなるとともに、そのひとの生きざまを思い出したときに感じるぬくもりこそが、その人が伝えてくれたメッセージなんだと気づく。

ぼくは、もっと、ぬくもりに敏感になりたい。