気づいたら、うれしい。

話を切り上げるときに、また聞きたい旨を伝える。

恐らく、自然にできていることだろう。

けど、それを「いい行い」として紹介する文に出会っていたことで、実際に「また今度きかせて」と言ったぼく自身に気づくことができた。

 

さて、ゼミ発表を控えているのに、フィールドワークに行かなければいけない君は、どんな頑張りをするんだろうね。

行ってしまえば、きっと楽しむんだろうけど、少し役割演技を頑張りすぎてしまうかもね。

 

2017年の七夕は、いい日だった。あんまり意識、しなかったけれど。

キャンセルする権利

企業相手とはいえ、予定をキャンセルするのはやっぱり少し罪悪感を覚える。

いや、予定を入れた「過去の自分」に申し訳なくなるのだろうか。

 

しかし、断言したい。

キャンセルするのもぼくの権利だ。

そして、その判断は、判断をする瞬間において絶対的に正しいものである。

予定を入れたときはわからなかった未来の状況、心境の変化、それらを鑑みたうえでの判断なのだ。

「行かないことで得られたかもしれない価値」は計り知れないが、「行かないことで得られる時間」は明確に存在する。

そしてその時間を有意義に使う方法を知っているからこそ、ぼくはキャンセルする。

 

今回の場合は、自分の時間を管理できていなかったことが原因なので、もう少し予定の前後関係を気にしながら生活するべきかもしれない。

スケジュールを正しく認識する能力と、時間を有意義に使う能力は別だ。

 

スケジューリングはできている。

あとは、実行力をつけよう。

評価者として介在価値を得る。

これはあんまりやってこなかった。

というのも、人への評価をさも正しそうに語る鈴木が嫌いだからだ。

まぁ鈴木に限らず、教祖系の喋り馬はこの傾向にあると思う。

むしろこの傾向がない控えめな喋り馬っているのか。自己認識ガバガバだから喋りまくるんでしょ。

 

でも、自分が感じたことを発信するのは、悪いことじゃない。

というかさ、誰だって誰かに反応してほしいんだ。

すれ違ったら会釈でも、なんでもしてほしいんだ。無視はイヤだよね。するほうも、されるほうも。

それが、承認欲求の、いっちゃん最初だから、発信していいんだよ。

 

自分の日常を無理に語る必要はない。

見て、触れて、感じたことを素直に吐け。人に向かって吐け。

それを見たひとがまたなにかを感じる。そうやって感情は連鎖する。

誰かを承認することが、ぼくの武器だ。

承認されるのは得意じゃない。きっと、仕方ない。

生まれ持ったのは決してモテるビジュアルでも声でもない。

有象無象かもしれない。けど、有象無象からでも承認されたらうれしい。

わかってるはずだ。一度プラスになったら、失うのは怖いんだ。

モテるひとは違うかもしれないが、違わないかもしれないだろう。

フィードバックはいらない。まずは自分がフィードバックすること。

 

フィードバッカーになるんだ。

過集中スイッチの入れ方

高校受験はたぶんこれで乗り切ってる。

読書もこれでハマった。俺ツエーモードともいう。

 

簡単な方法がある。

視界を、集中したいもので埋めること。

問題解きたいなら問題集に顔を近づけるんだ。

バカみたいだけど、集中してるときのぼくはいつもこう。

いろんなものを視界に入れようとしたりすると、自分を俯瞰する自分が生まれてしまってアウトプットに支障をきたす。本当に集中したいときは、視界を埋めろ。

 

これは、劇的に効果を生む。

切り替え、どうする?

簡単な例をあげよう。

 

赤ちゃんをあやすときと、

SoCのレポートやるときは、そりゃ自分の別の側面が現れる。

 

けどさ、意識的に行えてるか。

たとえば、人と遊ぶときはぱーっと楽しむスイッチを入れるべきだ。

ていうか、そうじゃないと自分が不幸だから、そうしないと。

でも、レポートやったり、問題集解いてるときは、目の前の課題に集中して効率よくさばいていく必要があるから、情報収集スイッチは切断するべきだ。よくいう、過集中モードに入れるといい。

 

ここで、ぼくの課題の進め方を振り返ると、常時ゆったりマイペースで「どうしたらいいだろう?本当にこれでいいのか?」というWhyスイッチが入りっぱなしなことがわかる。

それは、まぁ哲学スイッチとでも呼ぶか、わりと最近入りっぱなしだよね。

無駄な考え、は多いと思う。だって、書面に起こしてないから想起するときに0から積み上げていく必要がある。結局のところ、ハウツー本鵜呑みのなにがいいって、理想の脳内状況を一瞬でひっぱりだせるところだ。プロセス無視で必殺技だせるんだから、採用するべきでしょ。

ぼくは自分の思想をもう少し固めたほうがいい。固めていくべきだ。

それはなにも、液体のぼくを無視しろという話ではない。

基本的に液状の自分を、固体として保存し続けるのだ。そうすることで、必要なときに取り出しやすくなる。

そういった点で、このblogには意味があるし、ひとに話すという行為にも意味が生まれる。気を付けるべきは、素直に、書くこと。

 

嘘を書いたら、それも固体として残ってしまうから。そんなことは避けよう。

あしたに備えて

明日はRENTのミュージカルを観るので、それに備えて映画版RENTを観終わったところだ。

1989年のNYが舞台だなんて信じられない。

HIVなんてどこか別の世界の病気に感じるし、異性愛が日常にある景色を見たこともない。

そして、こう言っては何だが、いまよりも進んでいるとしか思えない。

 

死が、いまよりももっと身近に在ったことは確かだろう。

そして、それは大きな差だ。

NO DAY BUT TODAYなんて言えるのは、うらやましい。

過去を見つめて、わけもわからず将来を見つめて、なんとか平和に生きていこうとするあまりに、やるべきことに死にもの狂いにもなれない。

今日以外にない?おかしい。現状はやはりおかしい。

 

未来のしあわせのために頑張ることで、行動を起こすことで、ぼくは確かに成長していると思う。けど、押しつぶしてしまったぼくもいる。

あるべき姿を浮き彫りにすることで、昨日の思い出も、今日のふるまいもすべてがそれに収束していく。

ちがう。もっと観測できない情報であふれていたはずだ。だからこそ、衝動的にひとに感情を伝えることができて、その人間味がだいすきだった。

それがどうしたことか。

不満がある。人に会おうとしない自分への不満。

会うことが、人数が目的ではない。しかし、以前よりも愛に鈍感になったと思う。

どうしたんだろう。

物欲も以前よりない。その理由は恐らく、やるべきことを認識して、それを頭の片隅に入れて生きているからだ。

要するに7月25日くらいまでは人間性みたいのは失われるのかもしれない。

そこを乗り越えない自分が想定できないから、どうにか成功させるためにぼくの潜在意識があらゆる欲をなくしてくれているのかもしれない。

あり得る仮説だ。つまり、割り切るべきなのだ。死にもの狂いになってもいいよ、と心が言っている。そのための環境も作ってくれている。

無理して愛するな。お前は、いまは別のものに集中していいんだ。

7月25日だけを見据えろ。

茫然自失から1年、状況は違うだろう。

いまは、あの時よりも頑張れる。ただ、あの時よりもあの子がそばにいない。

まぁ、あの子がいても勉強するフリだから、意味はないけどさ。

きっとぼくも寂しいんだよ。あの子の話が、すこしつまらなく聞こえるのは、おそらく自分と過ごす時間が短いからだ。共に過ごす時間というのは、極めて大事で、それが失われるということは、より大事ななにかがあるということ。

それは認めるべきだと思うし、異論はないけど、つまらないことは確かだ。

そうだ。きっとぼくらは二人とも、どんどんつまらなくなっている。

社会の枠、なんて無い物にはまろうとして、どうにかなってしまっている。

 

なんて言ったっけ。ゴミ問題?いやいや。

そんなのさ、働いてる人も思ってないでしょ。行動に移してないじゃん。

それっぽいことばっかいいやがって。聞いてるこっちの身にもなれ。

おれは面接官じゃないんだから、くだらない話を、うわべだけの妄言を吐くなよ。

中学生の妄想日記と同じだ。人前で自慰なんてしないだろう。

思想に価値はない。行動に価値がある。そう思うよ。

思想をぺらぺらしゃべるやつは嫌いなんだ。そんな暇があったら行動で示せることがたくさんあっただろうに、でもそいつはしゃべることを選んだ。なんで?簡単だし、本心でもないからさ。それはね、プライベートで見せるべきペルソナではないんだ。

せっかくの自分を型にハメて、くっだらないよな。もっとあるだろ側面が。

 

という風に、きっとぼくはいまのあの子は好きじゃない。

でも知ってる。もっと素敵な子なんだよ、前はそうだったからね。

戻るかどうかだ。戻らないなら、戻せない。

 

なんということだ。自分を好きになれないやつが、ひとを好きになれないって言ってるぜ。

当たり前だ。散々知ってることなのにな。うーん。RENTでも聞いた、最後のほう。

 

いまの自分を好きになれないのも事実だし、

いまのあの子を好きになれないのも事実だな。

 

なかなかに、迷走してるでしょ。

繋がっていく?

今日は遅く起きたにもかかわらず生産性は高い。

 

なによりもアポ取りが効率的に進んでいる。

これもすべて祖父のおかげではある。

 

祖父の会社時代の同期や弟さんと会う予定が立った。

集団で乗り込んで自分たちを売り込んで実際に上に立つ。

そんなやり方で社会を見続けてきた人たち、それもかなり上のレベルで見続けてきた人たちと会えるのは幸運でしかない。

しかしこの機会は、待っててやってくるものではなく、祖父の熱量が注がれた結果だということは痛感している。

その目的も、なんとなく察しながら、ぼくの憧れるひとが当たり前にやってきたことのなかに身を投じた。

 

そう。

去年に引き続き、夏は演奏会がある。

今年の市もまた遠いが、そこの市長さんの親は、ぼくの祖父が青春時代を過ごした学生寮の先生だったという。

実は、こうしていろんなものは繋がっているんだ。

気づこうとしなければ、気づかない。

繋ごうとしなければ、繋がらない。

 

過去の点を、現在に生きる人がつなげていく。

ザッカーバーグがいったように、なにが線になるかはわからないし、

もともと線になっているわけでもない。

線を作ることを目指すのもいいが、

祖父の学生時代のように、我憤ではなく公憤のほうがいいように、なにか大切な心の上に、線ができたらいいなと思う。