いまを、そのままみる。

この時期、極めて難しいのは「いまここ」を認識することだ。

 

過去はこうだった。

未来はなりたい。

 

こんなことを考えていると、どうしても

フィルターを通したいましか見れない。

そして、そんなフィルターがあることにも気づかずに生活してしまうのだ。

 

昔はもっと頭がよかった。

つまり、この課題はすぐに終わるだろう。

こうしていまが捻じれて、どうしようもなくなってしまう。

 

未来はもっとドキドキして幸せになりたい。

だから平凡な日常は放棄するべきだ。

こんなバカげた思想がうまれてしまう。

 

気分なのだろうか。

結局、どんなフィルターを通してみているか。

これを認識することが重要だ。

 

そのうえで、やっぱり一番大事なのは「いまここ」のジブンだろう。

判断材料なんて全部取っ払ってみて、最新の言動・行動を見つめてごらん。

もしいなくなったら。

重要なメッセージを送ってくれるひと。

そういうひとのおかげで、豊かな人生が成り立っているのではないか。

 

自分で考えることは重要だが、道をそれることもある。

そんなときに、自分勝手であろうと、声をかけてなにかを伝えてくれるひと。

そういうひとのおかげで、ぼくは挫けずにやっていけてるんだろう。

 

親、親族、じぶんを愛してくれるひとの言葉というのは本当に大切なもの。

押し付けるな と反感を覚えることも多いが、もし、もしそのメッセージを受け取れなくなったら、と考えるとこんなに寂しいことはない。

 

ぼくのことを思って紡いでくれている言葉、しわがれた声や、電話越しに流れる古臭いBGMや、これまでたくさん話した思い出、それはずっと続くものではない。

愛されている。愛している。

そんなひとの声が届かなくなったら、こんなに寂しくてつらいことはないだろう。

 

別れというものを意識しすぎると、不安になってしまう。

だから、自然体で、一瞬を大切にできるひとになりたい。

頑張らなくても、メッセージを記憶に留めておけるようなひとになりたい。

 

ぼんやりと、そのひとの顔と、くれたぬくもりは覚えていても

どうしてか、大事なメッセージは忘れていたりするだろう。

すこし、寂しくなるとともに、そのひとの生きざまを思い出したときに感じるぬくもりこそが、その人が伝えてくれたメッセージなんだと気づく。

ぼくは、もっと、ぬくもりに敏感になりたい。

 

最悪の法則

基本的に、習慣というものを持てないのが自身のデメリットでありメリットであると思っているのだが、

まさか、こんなにひどい習慣・法則を持ち合わせていたのか、と愕然としたのが今日の帰り道である。

 

ERPの会社で頭をやわらかくした日のことだから、きっと間違いない気づきだと思う。

要するに

 

「決められた時間に、決められたことをやらない」

「決められてない時間に、突発的に為す」

 

というのが自分の習慣・傾向なのだ。

 

睡眠も、そう。

講義も、そう。

バイトも、そう。

インターンの課題も、そう

夜更かしも、そう。

 

 

「〇〇すべきときだ」という認識をすると、

なぜかそれに反した行動をとりだす。

 

寝るべき時間に活動的になる。

起きるべき時間に寝ている。

働くべき時間にサボり方を考える。

課題をこなすべき時間に放棄する。

勉強すべき時間になにもしたくなくなる。

 

これら1つ1つの課題に向き合った時間は長かった。

もっともな理由も見つかったし、少し改善したケースもある。

だが、根本的に抱える傾向がおおもとの原因だろう。

内的なあまのじゃく、とでも言えるだろうか。

社交的だし、好きな人には素直に接する。

 

さてさて、この傾向を改善するか、利用するかは後で考えるとして

「決められた時間に働く」というのが主な仕事の在り方である以上、

どうにか変えていかないとぼくはやっていけないだろう。

 

こわもて巨人兵、どこへゆく。

気づいたら、うれしい。

話を切り上げるときに、また聞きたい旨を伝える。

恐らく、自然にできていることだろう。

けど、それを「いい行い」として紹介する文に出会っていたことで、実際に「また今度きかせて」と言ったぼく自身に気づくことができた。

 

さて、ゼミ発表を控えているのに、フィールドワークに行かなければいけない君は、どんな頑張りをするんだろうね。

行ってしまえば、きっと楽しむんだろうけど、少し役割演技を頑張りすぎてしまうかもね。

 

2017年の七夕は、いい日だった。あんまり意識、しなかったけれど。

キャンセルする権利

企業相手とはいえ、予定をキャンセルするのはやっぱり少し罪悪感を覚える。

いや、予定を入れた「過去の自分」に申し訳なくなるのだろうか。

 

しかし、断言したい。

キャンセルするのもぼくの権利だ。

そして、その判断は、判断をする瞬間において絶対的に正しいものである。

予定を入れたときはわからなかった未来の状況、心境の変化、それらを鑑みたうえでの判断なのだ。

「行かないことで得られたかもしれない価値」は計り知れないが、「行かないことで得られる時間」は明確に存在する。

そしてその時間を有意義に使う方法を知っているからこそ、ぼくはキャンセルする。

 

今回の場合は、自分の時間を管理できていなかったことが原因なので、もう少し予定の前後関係を気にしながら生活するべきかもしれない。

スケジュールを正しく認識する能力と、時間を有意義に使う能力は別だ。

 

スケジューリングはできている。

あとは、実行力をつけよう。

評価者として介在価値を得る。

これはあんまりやってこなかった。

というのも、人への評価をさも正しそうに語る鈴木が嫌いだからだ。

まぁ鈴木に限らず、教祖系の喋り馬はこの傾向にあると思う。

むしろこの傾向がない控えめな喋り馬っているのか。自己認識ガバガバだから喋りまくるんでしょ。

 

でも、自分が感じたことを発信するのは、悪いことじゃない。

というかさ、誰だって誰かに反応してほしいんだ。

すれ違ったら会釈でも、なんでもしてほしいんだ。無視はイヤだよね。するほうも、されるほうも。

それが、承認欲求の、いっちゃん最初だから、発信していいんだよ。

 

自分の日常を無理に語る必要はない。

見て、触れて、感じたことを素直に吐け。人に向かって吐け。

それを見たひとがまたなにかを感じる。そうやって感情は連鎖する。

誰かを承認することが、ぼくの武器だ。

承認されるのは得意じゃない。きっと、仕方ない。

生まれ持ったのは決してモテるビジュアルでも声でもない。

有象無象かもしれない。けど、有象無象からでも承認されたらうれしい。

わかってるはずだ。一度プラスになったら、失うのは怖いんだ。

モテるひとは違うかもしれないが、違わないかもしれないだろう。

フィードバックはいらない。まずは自分がフィードバックすること。

 

フィードバッカーになるんだ。

過集中スイッチの入れ方

高校受験はたぶんこれで乗り切ってる。

読書もこれでハマった。俺ツエーモードともいう。

 

簡単な方法がある。

視界を、集中したいもので埋めること。

問題解きたいなら問題集に顔を近づけるんだ。

バカみたいだけど、集中してるときのぼくはいつもこう。

いろんなものを視界に入れようとしたりすると、自分を俯瞰する自分が生まれてしまってアウトプットに支障をきたす。本当に集中したいときは、視界を埋めろ。

 

これは、劇的に効果を生む。