hatena blog 始まります。

「やりたい」がすぐにかなう時代にありがてぇと叫んでいる。

 

きっかけはそこらじゅうにあった。

そもそも、hatena blogを始めるきっかけは無数にあった。

 

chatには匿名でなりたい自分になれる全能感と瞬間の脆さがあり、

mixiには友人の友人へと存在が拡散されていくおもしろみがあり、

Twitterには誰かのいまをこっそり観測する変態じみたアレがあり、

instagramには写真・動画への定量的な評価という新鮮さがあり、

tumblrにはレイアウトの自由度がもたらす自分の部屋感がある。

 

小説、妄想に没入する、異世界トリップ。

短歌、日常をある型にはめる、文化的タイムスリップ。

小論文、誰かの視点を借りる、ペルソナファッションショー。

 

しびれるような直観を目に見える形で残してくれる写真。

まぎれもなく生きていて、死んでいく、人生のような音楽。

 

blogにもきっと、そういうものがあると思えた。

 

表現は、非日常だからこそすきだった。

びっくりするくらい、ぼくは表現がすきだった。

表現方法によってにじみ出る自分自身が違うのがおもしろい。

無意識の引き出しには忘れ去られた材料がたくさんあって、どう扱うかでいくらでも化ける気がする。

引き出しを開けさえすれば、あとはいくらでも遊べる。

だが作品として洗練されたものを生み出した記憶はない。

生み出そうと努力をつづけたこともない。どこにも継続はなかった。

日常的に表現していないからこそ、あるいは思想が抑圧されているからこそ、

あるとき眠っていた自分を発見すると、どうしようもなく嬉しいのだ。

ぼくにとって表現とは、非日常的な趣味だったのかもしれない。

 

表現の魅力=偶発的な収穫?

偶発的な収穫は気持ちがいい。

てきとうなコマンドを入力したらたまたま隠れアイテムをゲットするような、

そう、システムをよく知らないからこそ許される楽しみ方だ。

 

偶発的な収穫が評価されるのはもっと気持ちがいい。

たまたま表出した自分自身を肯定されるのは、「ありのまま」に対してYESを貰ったかのような感触だ。

これがモチベーションに、自信に繋がるのは至極当然。

しかし、これは表現の魅力のほんの一端にすぎないのではないか?

 

表現の魅力=自己実現(夢をかなえること)

偶発的な収穫を「過去・現在」由来のものとするなら、

「現在・未来」由来のものは、意図的・計画的な収穫である。

 

この収穫のほうが気持ちがいいことを、なぜかぼくは知っている。

その理由もなんとなくわかる。時間を費やしたから。思考リソースを費やしたから。失敗があり、学びがあり、成長があったから。

すべてを通じて、まぎれもない自分の意志があったからだ。

納得感は自分の芯になる。

世間が評価する「なにか」になるには翼が必要だしそんなものついてない。

暗闇のなか白杖をもって少しずつ歩くみたいに、

すこしずつでいいから、なりたい自分に近づいていこう。