機嫌よく生きるということは

物語の最後に「めでたしめでたし」をつけることができる

というのがぼくの個性である。

これは当然、幸福とするか否かは自分次第であるという理に基づいた実践なわけだ。

 

さて、本題は自身の好むところである「写真」が「幸せそうなぼく」を映していないという点である。すべての瞬間において、ではないが幸せであるべき瞬間に相応しい表情をしていないのだ。

これは困ったことだ。幸せは強引な解釈でつくることはできるが、瞬間を切り取った数メガバイトのそれは無表情な自分を映している。展開とオチに溝がある気がして少々ひやっとする。あってもいいのだが。あるほうが多いのだろうが。ぼく自身はそれをどうにか変えたいと思っている、ということが最も重要なのだ。

 

とはいえ、表情に出ているものだけがその人の心の凡てではなく、一般的に、多くの感情やそれ以前の認識というものは表情に出ることなく過ぎ去っていく。消え去っていく。

それらの不可視なものを表現するのが色々な芸術だということは、まぁなんとなくわかってきた。

しかし活き活きとした表情が大好きで、そういう人を写真に収めたいぼくにとってこの事実はそれなりにショッキングだったからこそ、変えたい。

 

なにがショッキングなのか。

極論、ぼくはどんな感情・表情を経たとしても過去を振り返る瞬間は幸福なのだ。

しかし、一緒にいた友人はどうか。幸福そうではないぼくを観測した友人はどうだろうか。

これもまた、幸福になるかどうかは友人次第、とは言えるものの友人全員が意志をコントロールできるわけではない。そして観測した事象を捻じ曲げることはない。

要するに、後でぼくが勝手に幸福になろうが、友人にとってはそれほど幸福ではないぼくが現実なのだ。現象なのだ。

一緒にいるひとの表情というものは、大小は異なれど、その後の関係性に影響を与える。また会いたくなるか、どうかというところだ。

ぼくはまた会いたいと思われたいし、そのためにはできる限りのことをする。面白いアイデアで一日を彩るのもそれが理由だし、写真で楽しい瞬間を残すのもそれが理由かもしれない。

 

というわけで、ぼくは上機嫌でなければならない。無防備なぼくでなければならない。

なにかを論理的に考えようとするとき、表情は死ぬ。論理は感情と相いれない。水と油だ。楽しいときのぼくは概ね好き勝手やってるときだ。ひとの都合をあまり考えなくていいとき。顔色を窺わずともいい雰囲気が伝わってくるとき。誰もあまり我慢していないとき。こういう状況を探していくと、3-4人くらいのグループがこれにあたる。話し手、聞き手のバランスがちょうどいい。ぼくはそういうときが一番楽だ。

では、2人のときはどうだ。難しい。間、というものを意識せざるを得ない。

あーもうめんどいのであとは今度考えよう。