なにを、してもらっているのか

人は一人で勝手に助かるみたいな話をダーっと観て、それがすごく面白くてニヤニヤした明け方があった。

今回はその話ではないが、それに近い話だ。

 

ぼくは自分の力で生きているか?もちろんノーだ。でもそんなことは意識しないで生きられている。それくらいにはなにかをしてもらっているのだ。

自分の力で生きていると勘違いさせるくらいに、大きななにかをぼくは貰っている。

それは抽象的に言うことは簡単だけど、結局のところ、「なにをしてくれたか」という具体的行動はそれを起こす周囲の人間そのものに依存する。個性ともいえる。

なにを享受しているのか、それを認識しようとしないうちは「子ども」である。自分で、そう望んでいるのだ。無意識化でそれらすべてを「当たり前」と認識するのが親子の関係性なのだろうし、無償の愛というものだ。

しかし、本当に当たり前だと認識しているわけではない。だからこそ節目で感謝を表明するし、あるいは同じような愛をもってぼくらは恩返しをする。

恩返しを期待してなにかをしているわけではない。感謝の気持ちというのは、親子という関係性とはまたべつの現象であり、深く考えるべき行動なのだ。

 

いつだったか。ぼくは自分をひとに感謝しない人間であると感じたことがある。

恐らく大学四年の春だろう。過去を冷静に分析し始めたのはそのあたりしかない。

恐らくその直感は概ね当たっている。奉仕の精神こそあれど、それは感謝に基づくものではなかった。なにかのサイクルではなく、一方的にぼくが与えたいものを与えていただけに過ぎない。

 

ともあれ、少々時間はかかったものの、ぼくはやっと「人が自分にしてくれたこと」について考えるようになった。気まぐれともいうが、その気がなければ気まぐれも生まれない。

 

今日でいえば、

大量に出した洗濯物を当たり前のように洗って干してたたんで階段に置いておいてくれたし、おいしいランチが食べられるお店に一緒にいこうと誘ってくれたし、愛情を包み隠さず伝えてくれたし、それとなく油断しきった声で優しいなと言ってくれたし、唐揚げやコロッケを買ってきて温めてお皿に盛ってくれたし、めかぶをモズクだと言って勧めたは健康を気にしてくれたのだし、身近な男性との相性の悪さをそれとなくボヤいたのは自己開示であり信頼の表明だろうし、知らないうちにシーツを椅子の上に置いておいてくれたし、ぼくがお湯を沸かす手間を省くために自分の飲んでる紅茶をくれたし、お財布事情を理解して援助を切り出してくれたし、お風呂はいつの間にかできていたし、いろんなコストは誰かが払ってくれているからこそ電気が使えて今もPCを開いている。

 

今日だけでも、思いついただけでもこれだけのことを享受している。

そしてこれらは、多くの場合「当たり前」としてやり過ごされているが、ぼくが思うに日常的なそれらは一つの気持ちで上位の存在に変換することができる。つまるところ、感謝の表明により、奉仕は形をもち両者が認識できるようになる。感謝が日常的すぎるとそれはそれでまた一つ上の感謝が必要になってしまうからこそ、感謝は安売りするべきものではないのかもしれないが、それはともあれ意図的にでも行うべき価値ある行動なのは疑いようがなかった。

 

ぼくが、感謝を意識することには上記の主目的とは別の目的がある。

他者からのアプローチを認識することで、「貢献したい」、「恩を返したい」という意識を高めることだ。「自堕落でもいい」という認識は、自分勝手に生きている限り無くならないだろう。もう少し、他者がぼくにしてくれていることを自覚することで、期待に沿う意識を育てようと思う。

 

まぁ、これは少し危ない。病んだりするのは、きっと自分で自分の像をコントロールできなくなるからだろうし、リスクはあるんだ。でも、リスクなしに得られないものはゴロゴロあるのもまた事実で、いまはそういうものを手に入れたいのだ。