評価者として介在価値を得る。

これはあんまりやってこなかった。

というのも、人への評価をさも正しそうに語る鈴木が嫌いだからだ。

まぁ鈴木に限らず、教祖系の喋り馬はこの傾向にあると思う。

むしろこの傾向がない控えめな喋り馬っているのか。自己認識ガバガバだから喋りまくるんでしょ。

 

でも、自分が感じたことを発信するのは、悪いことじゃない。

というかさ、誰だって誰かに反応してほしいんだ。

すれ違ったら会釈でも、なんでもしてほしいんだ。無視はイヤだよね。するほうも、されるほうも。

それが、承認欲求の、いっちゃん最初だから、発信していいんだよ。

 

自分の日常を無理に語る必要はない。

見て、触れて、感じたことを素直に吐け。人に向かって吐け。

それを見たひとがまたなにかを感じる。そうやって感情は連鎖する。

誰かを承認することが、ぼくの武器だ。

承認されるのは得意じゃない。きっと、仕方ない。

生まれ持ったのは決してモテるビジュアルでも声でもない。

有象無象かもしれない。けど、有象無象からでも承認されたらうれしい。

わかってるはずだ。一度プラスになったら、失うのは怖いんだ。

モテるひとは違うかもしれないが、違わないかもしれないだろう。

フィードバックはいらない。まずは自分がフィードバックすること。

 

フィードバッカーになるんだ。

過集中スイッチの入れ方

高校受験はたぶんこれで乗り切ってる。

読書もこれでハマった。俺ツエーモードともいう。

 

簡単な方法がある。

視界を、集中したいもので埋めること。

問題解きたいなら問題集に顔を近づけるんだ。

バカみたいだけど、集中してるときのぼくはいつもこう。

いろんなものを視界に入れようとしたりすると、自分を俯瞰する自分が生まれてしまってアウトプットに支障をきたす。本当に集中したいときは、視界を埋めろ。

 

これは、劇的に効果を生む。

切り替え、どうする?

簡単な例をあげよう。

 

赤ちゃんをあやすときと、

SoCのレポートやるときは、そりゃ自分の別の側面が現れる。

 

けどさ、意識的に行えてるか。

たとえば、人と遊ぶときはぱーっと楽しむスイッチを入れるべきだ。

ていうか、そうじゃないと自分が不幸だから、そうしないと。

でも、レポートやったり、問題集解いてるときは、目の前の課題に集中して効率よくさばいていく必要があるから、情報収集スイッチは切断するべきだ。よくいう、過集中モードに入れるといい。

 

ここで、ぼくの課題の進め方を振り返ると、常時ゆったりマイペースで「どうしたらいいだろう?本当にこれでいいのか?」というWhyスイッチが入りっぱなしなことがわかる。

それは、まぁ哲学スイッチとでも呼ぶか、わりと最近入りっぱなしだよね。

無駄な考え、は多いと思う。だって、書面に起こしてないから想起するときに0から積み上げていく必要がある。結局のところ、ハウツー本鵜呑みのなにがいいって、理想の脳内状況を一瞬でひっぱりだせるところだ。プロセス無視で必殺技だせるんだから、採用するべきでしょ。

ぼくは自分の思想をもう少し固めたほうがいい。固めていくべきだ。

それはなにも、液体のぼくを無視しろという話ではない。

基本的に液状の自分を、固体として保存し続けるのだ。そうすることで、必要なときに取り出しやすくなる。

そういった点で、このblogには意味があるし、ひとに話すという行為にも意味が生まれる。気を付けるべきは、素直に、書くこと。

 

嘘を書いたら、それも固体として残ってしまうから。そんなことは避けよう。

あしたに備えて

明日はRENTのミュージカルを観るので、それに備えて映画版RENTを観終わったところだ。

1989年のNYが舞台だなんて信じられない。

HIVなんてどこか別の世界の病気に感じるし、異性愛が日常にある景色を見たこともない。

そして、こう言っては何だが、いまよりも進んでいるとしか思えない。

 

死が、いまよりももっと身近に在ったことは確かだろう。

そして、それは大きな差だ。

NO DAY BUT TODAYなんて言えるのは、うらやましい。

過去を見つめて、わけもわからず将来を見つめて、なんとか平和に生きていこうとするあまりに、やるべきことに死にもの狂いにもなれない。

今日以外にない?おかしい。現状はやはりおかしい。

 

未来のしあわせのために頑張ることで、行動を起こすことで、ぼくは確かに成長していると思う。けど、押しつぶしてしまったぼくもいる。

あるべき姿を浮き彫りにすることで、昨日の思い出も、今日のふるまいもすべてがそれに収束していく。

ちがう。もっと観測できない情報であふれていたはずだ。だからこそ、衝動的にひとに感情を伝えることができて、その人間味がだいすきだった。

それがどうしたことか。

不満がある。人に会おうとしない自分への不満。

会うことが、人数が目的ではない。しかし、以前よりも愛に鈍感になったと思う。

どうしたんだろう。

物欲も以前よりない。その理由は恐らく、やるべきことを認識して、それを頭の片隅に入れて生きているからだ。

要するに7月25日くらいまでは人間性みたいのは失われるのかもしれない。

そこを乗り越えない自分が想定できないから、どうにか成功させるためにぼくの潜在意識があらゆる欲をなくしてくれているのかもしれない。

あり得る仮説だ。つまり、割り切るべきなのだ。死にもの狂いになってもいいよ、と心が言っている。そのための環境も作ってくれている。

無理して愛するな。お前は、いまは別のものに集中していいんだ。

7月25日だけを見据えろ。

茫然自失から1年、状況は違うだろう。

いまは、あの時よりも頑張れる。ただ、あの時よりもあの子がそばにいない。

まぁ、あの子がいても勉強するフリだから、意味はないけどさ。

きっとぼくも寂しいんだよ。あの子の話が、すこしつまらなく聞こえるのは、おそらく自分と過ごす時間が短いからだ。共に過ごす時間というのは、極めて大事で、それが失われるということは、より大事ななにかがあるということ。

それは認めるべきだと思うし、異論はないけど、つまらないことは確かだ。

そうだ。きっとぼくらは二人とも、どんどんつまらなくなっている。

社会の枠、なんて無い物にはまろうとして、どうにかなってしまっている。

 

なんて言ったっけ。ゴミ問題?いやいや。

そんなのさ、働いてる人も思ってないでしょ。行動に移してないじゃん。

それっぽいことばっかいいやがって。聞いてるこっちの身にもなれ。

おれは面接官じゃないんだから、くだらない話を、うわべだけの妄言を吐くなよ。

中学生の妄想日記と同じだ。人前で自慰なんてしないだろう。

思想に価値はない。行動に価値がある。そう思うよ。

思想をぺらぺらしゃべるやつは嫌いなんだ。そんな暇があったら行動で示せることがたくさんあっただろうに、でもそいつはしゃべることを選んだ。なんで?簡単だし、本心でもないからさ。それはね、プライベートで見せるべきペルソナではないんだ。

せっかくの自分を型にハメて、くっだらないよな。もっとあるだろ側面が。

 

という風に、きっとぼくはいまのあの子は好きじゃない。

でも知ってる。もっと素敵な子なんだよ、前はそうだったからね。

戻るかどうかだ。戻らないなら、戻せない。

 

なんということだ。自分を好きになれないやつが、ひとを好きになれないって言ってるぜ。

当たり前だ。散々知ってることなのにな。うーん。RENTでも聞いた、最後のほう。

 

いまの自分を好きになれないのも事実だし、

いまのあの子を好きになれないのも事実だな。

 

なかなかに、迷走してるでしょ。

繋がっていく?

今日は遅く起きたにもかかわらず生産性は高い。

 

なによりもアポ取りが効率的に進んでいる。

これもすべて祖父のおかげではある。

 

祖父の会社時代の同期や弟さんと会う予定が立った。

集団で乗り込んで自分たちを売り込んで実際に上に立つ。

そんなやり方で社会を見続けてきた人たち、それもかなり上のレベルで見続けてきた人たちと会えるのは幸運でしかない。

しかしこの機会は、待っててやってくるものではなく、祖父の熱量が注がれた結果だということは痛感している。

その目的も、なんとなく察しながら、ぼくの憧れるひとが当たり前にやってきたことのなかに身を投じた。

 

そう。

去年に引き続き、夏は演奏会がある。

今年の市もまた遠いが、そこの市長さんの親は、ぼくの祖父が青春時代を過ごした学生寮の先生だったという。

実は、こうしていろんなものは繋がっているんだ。

気づこうとしなければ、気づかない。

繋ごうとしなければ、繋がらない。

 

過去の点を、現在に生きる人がつなげていく。

ザッカーバーグがいったように、なにが線になるかはわからないし、

もともと線になっているわけでもない。

線を作ることを目指すのもいいが、

祖父の学生時代のように、我憤ではなく公憤のほうがいいように、なにか大切な心の上に、線ができたらいいなと思う。

今がピークかもしれないから。

父が応援してくれている。

昔から自由にやらせてくれる人だったけど、

今回は恐らく、夢を応援する気持ち以外にも嬉しい部分があるんだと思う。

 

実際、珍しいタイプだ。

典型的な職人一家で育ったからコミュニケーションに難はあるが、

極めて論理的に、リスクヘッジをしている(ように見える)し、困窮を表に出さず、大黒柱を務めあげている。

最近は、変化を感じる。

大事な人を、ここ何年かで失っているからか。

前は、すこし近寄りがたく、本音を言えない相手だった。

権力をもっていて、主張が一方的で、暴君であった。

 

変化は、いい方向に転がっている。

ぼくが無理をしなくても、素直に話していれば居心地のいい雰囲気が生まれる。

それは、ぼく自身が自立したことも影響しているだろう。

自立したうえで、対話ができている。未来を見ている。

両親がじぶんのことを頭ごなしに否定することもなく、尊重してくれている。

恵まれていると思う。形は違うが、両親は子育てにおいてベストを尽くしてくれている。

生活の基盤を支える父と、幸せに生きるための人格形成を手伝ってくれる母。

 

母と父の溝は深刻で、恐らくいつかは違う道を歩いたほうがいいとさえ思う。

そのほうが簡単だと、思う。

だけど、もしできるなら、共存できる人間を目指してほしい。

 

 

そう、今がピークかもしれない。

失敗したら、崩壊が近づいてしまう。それが怖い。

ぼくは、ムードメイカーではない。作ることはできない。

あくまで、調整役。もともとの雰囲気が、温和である必要がある。

不甲斐ないが、ぼくはムードに負けちゃいけないな。

勝てないけど、抗うことに意味はある。そういう風にやってきた。

 

さて、なにが起きてもいいように、後悔しないように頑張ろうよ。

わかったかも

わかったかもしれない。

勉強がはかどらない理由。

前のエントリで明らかになったのは、ぼくは自己認識を実際の自分より上方修正しているということ。

誇張するスキルは必要だけど、認識はフラットである必要がある。

そうか、若干プライドが高いかもしれないと思ってたけど、つまりそういうことなのか。

 

簡潔に述べると、

ぼくは自分がちょっと勉強できると思ってるけど、

全然そんなことねーよってことだ。

 

だから、いざ問題を解こうとすると想像してるより解けなくて、理解できなくてイライラする。理想とのギャップに苦しむ。

これ、いくら試行回数を増やしてもあんまりよくない。

できないことが現れるたびに心を折られてるわけだから、そりゃ続かないわけだ。

勉強できないんだから、躓くのも当然だよ。

わからないときは飛ばしてもいいし、検索してもいいし、だれかに相談してもいいんだよ。

自分を責める必要もないし、問題を責める必要もない。

できないものはできないよ。

予想よりはやく解けなくても仕方ないよ。ぼくは思ったより勉強できないもん。

 

頭はそんなに悪くないけど、でもスピードは遅いよね。

ゆっくり、のんびり、質は高め、でもミスもする。そういうタイプじゃん。

 

てきぱきしようなんて、まずムリなんだって笑

だから、てきぱきできなくてもしょぼくれないでさ。

ゆーったり、まーったり進めていこうよ。カタツムリとかカメとかなのさ。

塩は避けて、あるいていこうよ。

目的地が遠いなら、やっぱり歩き続けるほかない。

自分がカタツムリ/カメだということ、忘れないでね。

 

自分のことうさぎさんだと思ってたから、それこそ昼寝してたよね。

いままでぼくは、昼寝するカメだったわけ。うーん。つらい。