横一列でスタートを切った、ボクら。
この人とは同じ括りにされたくない、と感じる相手が多い。
同じコミュニティで、同じ属性を冠しているとき、特にそう感じる。
それと似た状況として、誕生日が同じ彼のことを考えている。
なにかに秀でているわけではないが、独特のリズムでおもしろい雰囲気を醸している彼は、しかしやはりひとに劣る部分が多い。
同じプロジェクトに携わって実感したのは、そのモチベーションの低さと、対人スキル
の低さだ。どちらかが長けていれば、投げられた仕事を遂行する歩兵くらいにはなれたものを、残念なことにどちらもできないのが彼だった。
さて、誕生日、大学、キャリアがここまで近い存在は稀なため、本来であれば切磋琢磨しあえる関係が理想だったと思う。
一人で考えると思考スピードは遅くなるし、お互い利用しあえればよかった。
しかし、現在の関係性は近くも遠くもない微妙なものである。
「同じ括りにされたくない」という気持ちが最も大きな障害物になっているので、この気持ちを深堀りしていこう。
発生の原因をさぐるために、じぶんにいくつかの質問を投げる。
①同じ括りにされたくはないが、実際大きな違いが存在しないのでは?
YES.肩書やコンテンツという意味では大きな違いは存在しない。
ただ人間としての志向性は大きく異なると思う。
表面上でのやり取りに重きを置くのが彼ならば、内面の核心を突きたいのが僕だ。
彼は一貫してゆるく低空飛行だが、僕は熱意をもって極めたいという気持ちがある。
人に対する抵抗感というのは、相手の中に、認めたくない自分の姿を垣間見たときに抱いてしまうものではなかろうか。すべてがそうではないが、今回はそうだ。
さて、ぼくはどんなじぶんから逃げているのか。
①不真面目な自分
熱意をもってやるプロジェクトもあるが、確かに低空飛行でなあなあな場合もある。
学問は特にそうで、その部分に関してぼくは彼と同じなのだ。
頑張れなかった自分を受け入れるべきだ。
②見下されている
彼は尊敬に値しない、と多くの人が感じているだろうことが、ひしひしと伝わってくる。というか公言されている。
しかし、彼が顕著なだけで、自分だってそうかもしれない。僕が成し遂げたことは可視化しづらいものだ。
つまり、自分に価値を見出していない人の多さというものから目をそらしてはいけない。大衆から称賛されるようななにかはできていないのだ。それは、外見で与える影響なども含まれる。一緒にいるだけで楽しくなるような外見はしていないのだから、もし大衆から称賛されたいのであれば、わかりやすいなにかを成し遂げる必要があるだろう。
ぼくは表舞台に立つのが向いていない。
裏方としてぬるいエンタメを提供するのが本分ならば、「大衆から評価される」という項目はぼくの生き方と相反することだと強く認識するべきだろう。
「個人から信頼される」というのが私の専売特許であり、どう考えても対人関係で重要なのはこのスキルなのだ。
個人からの信頼を重視する生き方。
さて、その生き方と「自己の発信」を両立するには、どうするのがベストか。