ギークフェスタ2019

というわけで、行ってきた。 

今回呼んでいただいたギークフェスタ」っていうのはエンジニア向けの合説だ。

いやー、むっちゃおもしろかった。

このイベントを企画・運営した関係者の方々に感謝です。

 

刺さったポイントは? 

個人的に刺さった感動ポイントは

  1. エンジニア向け説明会
  2. 交通費支給型
  3. 全国各地からの学生

の3点。

まず前提として、ぼくはエンジニアとして働くという選択肢を避けていた。

だからこの就活イベントの「対象」がそもそも新鮮だった。

そして学生、まーじで遠くから来てる。東北から九州まで。

理由としては、サポーターズの交通費支給制度が大きい。

関東圏は3000円、地方は10000円の支給。金銭面のハードルが下がるんだよね。

正直なところ交通費支給が参加の決め手かもしれない。

 

きになる参加企業は...     

 

 どこも名前は知ってる。

とはいえ会社規模・ネームバリューの差が激しいので、説明会はある程度そこらへんをグルーピングして偏りが出ない仕組みになっていた。いいと思う。

個人的には去年から新卒採用を始めたAWS、そして知り合いが就職して実に満足そうなヤフーが気になっていた。

 

なにを意識した?    

「実際どうなのか?」というところを念頭に臨んだ。

採用側のポジティブな企業PRはとても上手だし、いつだって心に響くプレゼンなのだが、組織の実情とかけ離れていることは珍しいことではない。

そこで、参加にあたり各企業の評判を転職支援サイト「vorkers」で下調べしてみた。

確認するのは

  1. 「年収・給与制度」
  2. 「退職検討理由」

の2点。

vorkersは匿名投稿なのでネガティブ寄りの意見にある程度の信憑性がある。

特に、明確な指標として「年収」はむちゃくちゃリアリティがある。

四季報に掲載されてる平均年収よりはマシな情報が転がっている。

ここの情報は参考程度に留めるべきだけど、一見の価値はある。

 

また、プレゼン中は社員の表情・喋り方に注目した。

定性的な情報だが、真顔で棒読みプレゼンしちゃう企業はさすがに遠慮したい。

 

実際に会話をしたときの違和感も大事にしている。

「この人とは働きたくないな」という判断基準になるので、ひとの好き嫌いが激しいひとはできるだけ、ノンバーバルなデータを集めたほうがいい。

 

実際の印象    

 

  • A社:公開情報は少ないが、今後確実に伸びる分野。人間味を感じたし、余裕も感じた。入れたらいいな、とは思うが自分の実力では見合わない。
  • B社:独特な雰囲気。社員の多様性を感じる。若手は真摯に人と接しているし熱意もあるが、中堅社員はちょっと冷めていて人を見ていない。虚空に向かってしゃべるタイプ。
  • C社:人事さんが見目麗しい。眼福。表情は常に頭を使っているような知的な印象が先にあり、しかし笑顔も自然であったためいいイメージ。先入観とのギャップはないが、基本給にみなし残業手当が含まれているため、残業が多い部署だとつれーのではと感じた。
  • D社:理念には非常に共感するし、実際に提供しているサービスも実に魅力的なのだが、いかんせん年収が低すぎる。残念。
  • E社:無表情ここに極まれり。無表情ゲームでもしているんだろう。
  • F社:自然な表情。穏やかな雰囲気は本物。のびのび楽しく働いているのが伝わる。学習に対するスタンスも強制的なものではなく、知的好奇心が旺盛で人を尊重している。むっちゃ入りたい。

 

合同説明会に加えて懇親会があったため、企業の方の人柄がポロリして旨かった。

人事の方を通しては見えづらい社員の本来の姿を垣間見ることができて楽しかった。

 

総括   

企業さんのことを知れたのももちろん収穫だったが、

なによりエンジニアを目指す学生と話せたことが一番よかった。

他人を鏡にして「あれ?なんか違うな?」という感触を得ることができた。

野望も実力もなく、ライフ寄りで選んでるぼくは明らかにゆるふわ大手志向だ。

これからも、ゆっくり少しずつ、たまにスキップしながらやっていこう。

概念からの脱却。そして、現実を描写する。

脳内至上主義      

ぼくは、人生を幸せに全うするうえでベースになる価値観に自信がある。

 

それがどういう経緯で生まれたかというと、実ははかなりシンプルだ。

  1. 人を不幸にする生き方を学ぶ
  2. 人を幸福にする生き方を学ぶ

これさえ意識していればいい。

要するに「不幸にする生き方」を避けつつ、「幸福にする生き方」を実践するという簡単なことだ。

 

本当はもっと複雑なんだろうけど、でも根底はこれな気がする。

言語化できていないし、言語化することに抵抗があるのは、

それはきっと、まだ言葉では表せないからだ。漠然とした巨大な思想。

 

価値観は不可侵であるべきだし、だからこそ折れずにやっていけるんだろう。

そういうわけで、きっと

ぼくは脳内の解釈のおかげで「しあわせ」という状態をわりとどんな状況でも作っている。自己暗示だ。

胡散臭いが、実はなにより重要なプロセスだということを忘れないでほしい。

そして、そんなことは意識する必要はないのだ。当たり前なんだから。

そんな独りよがりで勝手にしあわせになれるぼくは、なにを意識するべきか?

 

 

現実を記録する      

どう考えても、これに尽きる。

簡単にいうと、日記を書くということだ。

事実の記録がなにの役に立つかという疑問に対して、「日記的回答」をするならば、こんなエピソードがいいだろう。

 

ぼくの叔父(母の弟)はブログを書いている。

主に息子について、その成長記録を記したものだ。

ぼくは母からブログの存在を訊き、ちょっと覗いてみた。

うん、とてもほっこりした。

だって、文からにじみ出る息子への愛がくすぐったいから。

もちろん、盲目的なものではないし、叔父の主観が第一に書かれているところもすごくいいなぁと思った。

だれのためでもない、叔父自身のためのブログだった。

そんな、言ってしまえばかなりエゴにあふれたブログに家族への愛があふれている。

やられた~と思ったよ。めちゃくちゃ素敵じゃないですか。

「愛が前提にある」というのがぼくのすきな状況で、その前提があれば口論とか多少のすれ違いってのは、もううま味調味料でしかない。おいしいエピソードなんだ。

ぼくは、その叔父の日記をみたときに感動してしまったんだ。

ふだん仏頂面で、おっかない雰囲気のあのひとが、息子の近況を綴る。

毎日欠かさず更新する。

文字を通して垣間見える家庭が、すこしまぶしい。きっと補正もあるし、実はもっとドロドロした心情もあるだろうし、しごとのストレスとかもあるはずなんだ。

でも、その日記ブログは息子のためにだけ存在している。

将来、彼は父親の書いたブログを見つけるんだろうか...何を思うんだろうか...そこまで物語が想像できるのも素敵だ。

 

 

これがぼくの、最初の日記だ。

hatena blog 始まります。

「やりたい」がすぐにかなう時代にありがてぇと叫んでいる。

 

きっかけはそこらじゅうにあった。

そもそも、hatena blogを始めるきっかけは無数にあった。

 

chatには匿名でなりたい自分になれる全能感と瞬間の脆さがあり、

mixiには友人の友人へと存在が拡散されていくおもしろみがあり、

Twitterには誰かのいまをこっそり観測する変態じみたアレがあり、

instagramには写真・動画への定量的な評価という新鮮さがあり、

tumblrにはレイアウトの自由度がもたらす自分の部屋感がある。

 

小説、妄想に没入する、異世界トリップ。

短歌、日常をある型にはめる、文化的タイムスリップ。

小論文、誰かの視点を借りる、ペルソナファッションショー。

 

しびれるような直観を目に見える形で残してくれる写真。

まぎれもなく生きていて、死んでいく、人生のような音楽。

 

blogにもきっと、そういうものがあると思えた。

 

表現は、非日常だからこそすきだった。

びっくりするくらい、ぼくは表現がすきだった。

表現方法によってにじみ出る自分自身が違うのがおもしろい。

無意識の引き出しには忘れ去られた材料がたくさんあって、どう扱うかでいくらでも化ける気がする。

引き出しを開けさえすれば、あとはいくらでも遊べる。

だが作品として洗練されたものを生み出した記憶はない。

生み出そうと努力をつづけたこともない。どこにも継続はなかった。

日常的に表現していないからこそ、あるいは思想が抑圧されているからこそ、

あるとき眠っていた自分を発見すると、どうしようもなく嬉しいのだ。

ぼくにとって表現とは、非日常的な趣味だったのかもしれない。

 

表現の魅力=偶発的な収穫?

偶発的な収穫は気持ちがいい。

てきとうなコマンドを入力したらたまたま隠れアイテムをゲットするような、

そう、システムをよく知らないからこそ許される楽しみ方だ。

 

偶発的な収穫が評価されるのはもっと気持ちがいい。

たまたま表出した自分自身を肯定されるのは、「ありのまま」に対してYESを貰ったかのような感触だ。

これがモチベーションに、自信に繋がるのは至極当然。

しかし、これは表現の魅力のほんの一端にすぎないのではないか?

 

表現の魅力=自己実現(夢をかなえること)

偶発的な収穫を「過去・現在」由来のものとするなら、

「現在・未来」由来のものは、意図的・計画的な収穫である。

 

この収穫のほうが気持ちがいいことを、なぜかぼくは知っている。

その理由もなんとなくわかる。時間を費やしたから。思考リソースを費やしたから。失敗があり、学びがあり、成長があったから。

すべてを通じて、まぎれもない自分の意志があったからだ。

納得感は自分の芯になる。

世間が評価する「なにか」になるには翼が必要だしそんなものついてない。

暗闇のなか白杖をもって少しずつ歩くみたいに、

すこしずつでいいから、なりたい自分に近づいていこう。