概念からの脱却。そして、現実を描写する。
脳内至上主義
ぼくは、人生を幸せに全うするうえでベースになる価値観に自信がある。
それがどういう経緯で生まれたかというと、実ははかなりシンプルだ。
- 人を不幸にする生き方を学ぶ
- 人を幸福にする生き方を学ぶ
これさえ意識していればいい。
要するに「不幸にする生き方」を避けつつ、「幸福にする生き方」を実践するという簡単なことだ。
本当はもっと複雑なんだろうけど、でも根底はこれな気がする。
言語化できていないし、言語化することに抵抗があるのは、
それはきっと、まだ言葉では表せないからだ。漠然とした巨大な思想。
価値観は不可侵であるべきだし、だからこそ折れずにやっていけるんだろう。
そういうわけで、きっと
ぼくは脳内の解釈のおかげで「しあわせ」という状態をわりとどんな状況でも作っている。自己暗示だ。
胡散臭いが、実はなにより重要なプロセスだということを忘れないでほしい。
そして、そんなことは意識する必要はないのだ。当たり前なんだから。
そんな独りよがりで勝手にしあわせになれるぼくは、なにを意識するべきか?
現実を記録する
どう考えても、これに尽きる。
簡単にいうと、日記を書くということだ。
事実の記録がなにの役に立つかという疑問に対して、「日記的回答」をするならば、こんなエピソードがいいだろう。
ぼくの叔父(母の弟)はブログを書いている。
主に息子について、その成長記録を記したものだ。
ぼくは母からブログの存在を訊き、ちょっと覗いてみた。
うん、とてもほっこりした。
だって、文からにじみ出る息子への愛がくすぐったいから。
もちろん、盲目的なものではないし、叔父の主観が第一に書かれているところもすごくいいなぁと思った。
だれのためでもない、叔父自身のためのブログだった。
そんな、言ってしまえばかなりエゴにあふれたブログに家族への愛があふれている。
やられた~と思ったよ。めちゃくちゃ素敵じゃないですか。
「愛が前提にある」というのがぼくのすきな状況で、その前提があれば口論とか多少のすれ違いってのは、もううま味調味料でしかない。おいしいエピソードなんだ。
ぼくは、その叔父の日記をみたときに感動してしまったんだ。
ふだん仏頂面で、おっかない雰囲気のあのひとが、息子の近況を綴る。
毎日欠かさず更新する。
文字を通して垣間見える家庭が、すこしまぶしい。きっと補正もあるし、実はもっとドロドロした心情もあるだろうし、しごとのストレスとかもあるはずなんだ。
でも、その日記ブログは息子のためにだけ存在している。
将来、彼は父親の書いたブログを見つけるんだろうか...何を思うんだろうか...そこまで物語が想像できるのも素敵だ。
これがぼくの、最初の日記だ。