ぼくだって

ぼくだってなりたいですよ。

多くの人に愛されて、必要とされて、必死に生きている姿がカッコいい人間に。

 

でもぼくはそっち側の人間じゃないんです。

多くの人を愛して、必要として、平凡に生きながら頑張ってる人のサポートをする人間です。

 

決して、映画や小説や漫画で主人公をやれるタマじゃねぇ。

かといって、ライバルでも、カッコよく死んでいく脇役でもない。

 

でも幸せになりたい。幸せにしたい。

じぶんのまわりのひとが、ぼくと一緒にいたいと思えるような存在になりたい。

なのに、できない。

どうしても、相手の気持ちに寄り添えず、正しいことはこうだと言ってしまいたくなる。

相手の気持ちがくみ取れないわけじゃない。

けど、現状打破の方法を伝えたくなる。ぼくが出したアイデアで相手を変えたいと思ってしまう。ぼくはすごいんだと、思ってほしくなる。

 

ああ、ぼくは「こいつはすごいぞ」という承認を得たいのか。

そりゃ、愛されるわけないよ。必要とされないよ。

「ぼくはひとと違う」って思いたいんだろうか。中二病、終わってないな。

思想はそれぞれ違う。でも同じ人間で、日本人で、チームメイトだったりする。

括られるのがイヤ、という気持ちを「斜に構えてる」と切り捨てた彼は正しい。

「ぼくはひとと違う」って思ってたらどうしても、溝はなくならないんだ。

そりゃ中身は違うけど、同じところにいる。そう思う必要があるんだ。

溝はなくて、同じフィールドに、異なる存在があるという認識か。

 

前提として、絶対的に、ぼくはすごい人間ではない。

すごい人間になりたいわけでもない。

なのに、すごい人間だと思われたいようだ。

それは恐らく、相手から見た自分像が「たいしたことない人間」であることを知っているからだ。

だから、その像よりは、相対的にすごくなりたい。

すると、本当の自分から離れて行って、結局はぼく自身がいなくなってしまう。

 

ぼくの、実際の人間力が3だとする。

他者は、ぼくの人間力を2だと思っている。

そこで、ぼくは4の人間力を持つと言葉で虚勢を張る。

他者は、ぼくの人間力を4だと認識する。

しかし、実際の人間力とのギャップが原因で、ぼくのふるまいに違和感を感じる。

これじゃあ、本能的に信用できないよな。

 

まず虚勢を張るのをやめよう。

自分のできること、できないことを客観的に認識して、それを隠さず話そう。

そのうえで、勝手にそれ以上の存在に思われたらうれしい。

ほんとはそんなことないよ?という気持ちを持っていたい。

かな?わからないけど、虚勢はるのやめよう。いいことないや。